2021年 上期 総合カタログ スガノ農機 株式会社
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術短大の農業機械科に進学したのですが、教壇に立っていた足立原貫さんの掲げる「世襲的な農家農民型の農林業から、人が変わっても継続できる農業」に共感し、私自身もそうありたいと思いました。1967年の「農業開発事業者協会」の立ち上げに加わり、卒業後は旧・大山町(現・富山市)の廃村で、田畑を耕す日々を送りました。その活動の最中、戦後に植林したまま荒廃した森林地域に除草剤が撒かれることに危機を感じ、全国から若者を募って下草を手で刈る「草刈り十字軍運動」で現場の先頭に立ちました。いずれの活動も、根底には自ら汗をかいて実践することに重きを置いていたので、関係者と協議しながら頭を捻り、打開策を見いだし、率先して行動する力が養われたように思います。結婚を機に黒部に戻り、実家の農業を手伝い始めましたが、この辺りのほ場は、昭和9年に黒部川が氾濫した後に整備されたままで、農道も用排水も現代の機械体系には合っていませんでした。そこで、基盤整備を行うための啓蒙活動をしながら、自作地0.7haと約10haの借地を耕し、請け負い作業や冬季の除雪作業改革は数歩先より半歩先が丁度良かった集落営農には、可能性と限界がある北陸の稲作地帯でも大豆・麦のとれる土壌管理をもっと知ってもらいたい地域の仲間を集めた製品実演会を自らコーディネートをする経営を40代から50代にかけて続けていました。そんな中、荒俣地区では38軒を超える農家で集落営農組織(荒俣営農組合)を設立することになり、私も加わりました。約38haの水田を専従作業者1名と4~5人で作業を分担していました。初代組合長は、唯一の専業農家だった私の提案に耳を傾け、当地の作業に合わせた75馬力のフルクローラトラクタが導入されました。組合長を引き継いでからは、14インチ4連の水田用プラウ、モミサブローや溝掘り機、スタブルカルチ、レベラーなどを装備して、田んぼを乾かすための作業体系を確立していきました。それらは、水稲のほか、転作大豆や大麦の栽培にも効力を発揮しました。ところが、残念なことに、任期途中で私が組合長を下りると、従来通りのロータリ耕を多用する作業体系に戻ってしまいました。集落営農は農地をまとめたり、それぞれの能力を集結できる可能性があります。しかし、組合員それぞれの意見を上手に集約できないと、命令系統が機能せず、地域農業を担うプロ集団になれません。引き継ぐ人へのつなぎ方、専業的な後継者の育て方については、もしかしたら急ぎすぎてしまったのかもしれません。中小企業とは違い、集落営農の改革は数歩先ではなく、半歩先が丁度良かったんですね。黒部市内の水田を見ると、私がかつて悩んでいた状況のほ場が数多く見られます。私の大豆や大麦の栽培が軌道に乗ったのは、プラウ耕や排水対策に地道に取り組み、田んぼが乾いたからです。こうしたほ場をつくるためには、土壌管理が欠かせません。この地域で農業を継続していくためにも、収量や品質の高い農産物をつくるためにも、土壌管理の大切さに気づいてほしいと思っています。今年、近隣の営農組合や農業法人の仲間とともに「土壌管理研究会」を立ち上げました。自分のほ場の欠点を知り、土壌のメンテナンスをすることが必要だと呼びかけ、周囲を巻き込んで実演会を計画するなど定期的に勉強する場を設けています。こうした活動をこれからも精力的に続けて地域に貢献していきたいと思います。土壌管理研究会による研修会自宅裏手の日本海が活動精神を育んだ40

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